趣味のコンピュータ

 仕事としてのコンピュータは、あまり楽しい仕事ではない。

 ディスプレイを凝視して、とても面倒臭い作業をしている時でも、周囲にはそうは映らない。端末に向かって放心しているように見えるらしい。集中している時に後から不用意に声を掛けられて、何度椅子から飛び上がったか判らない。

 開発時は上流工程にも積極的に口を出すようにしていたが、維持運用に入ると、システムへの関与は分業化され、個人の作業は局所化され、繰り返しの機械的な作業と不具合対応が日常になる。

 自分はクライアント側の立場に居たので、そこそこ好き勝手はできたのだが、それでも中盤以降はマンネリ化して嫌気がさしていた。

 

 開発ステージは、クライアント側で関わる分には面白かった。それはシステム的な面白さが3割、業者との駆け引きが7割だった。システム企画部は運用部門の要求仕様を抽出する能力は持たず、予算管理が精一杯で、責任逃れの為に、業者と運用部門に丸投げの状態。業者はクライアントの企業の運用部門なんかは舐めきっていた。

 業者はクライアント側の要求を最初のうちこそ、黙って聞いているが、結局は実現可能性と予算を盾に、どんどん簡略化し、最終的には自分達が保持しているテンプレートに落とし込む戦法を取る。実現方法を詳細にクライアントに説明する事は無駄だと思っており、こちらが黙っていると、手抜きの議事録とそれに準じた仕様書を提案してくる。議事録はクライアントの言質を証拠化する為、仕様書は肝心な部分が誤魔化されていたり、意図的に抜け落ちたりしている。

 結局、業者とのミーティングはアリバイと経費稼ぎに過ぎない。ミーティングも人月の計算がからんでくる。議論が白熱して二転三転するのは、業者にとっては思う壷だっただろう。ミーティングに出席するクライアント側の人間は、素人に毛が生えたよりも始末に終えなかったりする。エンドユーザーコンピューティングが叫ばれていた時代で、適当過ぎる啓蒙書が出回っていた。偉い人達がシステム化に銀の弾の夢を見ても仕方はなかったのかもしれない。

 これが、たぶんITバブルの実態だ。合理的でシンプルな処理系より、営業主導で偉い人を納得させ易い処理系が優先され、処理の効率よりもアジャイルな開発手法が優先された。リッチプログラミングなんていうアセンブラ時代の技術者が卒倒しそうな概念が出てきたのもこの頃。システム的な美学よりも結果がすべて。技術者が作業者になり、IT土方なんていうコトバも生まれた。

 

 さて、趣味のコンピュータ。

 ITバブルの成果物を全て無視する事はできない。個人が普通にインターネットに接続できる環境というのはITバブルの賜物だし、PCが家庭用電化製品になったのも同様だ。コンピュータは身近な存在にはなったが、複雑で個人で把握しきるは難しい代物になってしまった。

 PCのプレイヤー化は、随分前から言われていたが、今のWindowsはコンピュータというより、アプリケーションプレイヤーとして見るのが正しい。自作パソコンにWindowsをインストールするよりは、始めからインストール済みのPCを買ってきた方が安上がりだし、ソフトウェアのインストールは下手にカスタマイズするより、デフォルトの方が無難だ。コンピュータを使うというよりは、コンピュータの上で走っているアプリを使うというイメージが主流になっている。

 アプリ自体も大規模で複雑になっている。これは差別化と便利さを追求した結果だから仕方がないのだが、使いこなせないほど便利になっても仕方がない。iTuneなんか、アプリがお節介過ぎて、せっかく整備したライブラリを不本意な形で再整備してくれる。アプリを使っているのか、使われているのか判らない。

 趣味でコンピュータを使うのなら、少々不便でも、自分が思うように振る舞い、自分の思うような結果を得る事のできるシステムを構築したい。システム上に自分の世界を創出したい。趣味的な技術者は作業者ではなく哲学者を目指すべきだ。

 今のコンピュータを取り巻く環境に言いたいことは沢山あるが、趣味としてコンピュータをいじるには良い時代になった。昔なら、CPUクロック1GHz以上、主記憶1GB以上、ストレージ容量20GBのPCなら場所をとる重いデスクトップで、購入価格も数十万円だった。今ならそれが仮想マシンで、必要なだけ複数セットアップできる。リアルマシンでもラズパイやらBBBなら1万円以内で調達できる。そのメリットを存分に活かすべきだ。